昭和五十六年三月二十三日 朝の御理解
御理解第三十四節 「ここへ参っても、神の言うとおりにするものは少ない。皆蹴ってから自分の良いようにするのでおかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にも替えられぬ。有難く受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ」
迷いがないようで迷いがある。何かに、まあ難儀なこと、困ったことに直面すると、その迷いが尚大きくなる。信心とはその迷いをなくして、そして神様一心と定める所にあります。
教えを頂くでもやっぱりそうです。「先生はああ言うてだけれども」と言う間は、まだ迷いがある時です。「先生がああ言われるから」と、そこん所を一心に行じて行く。頂いて行くということにならなきゃなりません。
だからなかなか一遍にそれが分かるとは思われませんけれども、段々体験に体験を積んで、神様のおかげをいよいよ分からせてもろうて、常日頃の言うなら手篤い信心が必要だと思います。
私が今朝方からお夢を頂いたんですけれども。私のようでもありゃあ、私ではないようにもあるんですけれども。どこかそれも年に一回しか出らないという汽車に、ある人を急き立てて、その人の親子、それに私のようであって私でないんですけれども、そしてそれに一人、それをお世話して下さる若い方と四人で、急き立てて急き立てて、もう時間がないからと言うて一生懸命その駅の方へホームへ走って、もう息急き切ってまあ駅までまいりましたが、もう私共が着いたのと汽車が出るのが一緒で、とうとう間に合わなかった。 それで、その、まあお母さんのような人が、若い、なんなお世話して下さるような方に「あんたが若いから、私達は走りきらんけど、一生懸命走って、あのちょっと待ってくれと言うとったら間に合うたかもしれんのに」とまあ不平を言うておられるところであったから、「いいや神様のご都合じゃが」と言うて、そのまあ乗り損なって、その三人で乗り損なって、「本当に今年は乗り損なうたけれども、来年はも少しゆとりのあるおかげを頂いての信心を頂いて、来年こそは乗り遅れないように乗らせてもらおう」と三人がこう話
を、非常にまあ乗り遅れたことがおかげであったというようにして、三人が抱き合って、一年後のこの汽車にまた乗れれるようにとこう励まし合うというか、心を合わせておるというようなお夢であった。
私の思いますのに、お互いが一生懸命信心すると言うても、何かそこに難儀なことが起ってくるから一生懸命になるというのは、さあグズグズしておって、「さあ汽車の時間に間に合わんが、早よう行かにゃあ」と言うて一生懸命駅まで走ってくるような一生懸命ではないかと思うですね。
お互いが一生懸命というのは、何か困ったときに一生懸命になる。だから、それも段々思わせて頂いて、信心の過程においてはそれがあります。一生懸命にお参り、地団駄踏んでお願いすると、それでおかげを受ける時もありゃあ、ならそういうふうで一足遅れで乗り遅れるといったような時もあるけれども。そこでですね、まあ本当に今年は乗り遅れたけれども、来年はもう少しゆとりのある生き方を身に付けて、そして来年こそは乗り合わせなければならんとこういうのです。
そして三人が抱き合って、そのそれを誓い合っておる。そういうところのことが一つの縁になって、私でもありゃあ私でもないような人と、その親子の娘さんとがそういうことが縁で結婚をされるというところであった。
ははあ、合楽では言うならば合楽し合う世界、いわゆる生み出す信心。頂く信心からいわゆる生み出す信心ということが言われます。まあどうぞどうぞと一生懸命お参りしておかげを頂くのは、一生懸命走って、その汽車に間に合うたというところではなかろうか。 そして私共がいよいよ一生懸命。そういう時に、言うならば走らんでもゆっくり行けれる。こちらの信心次第では、ゆとりのある信心すれば、その息急き切って走ることもいらんのだけれども。過程においてそういうところも通るんだけれども。乗り遅れて初めて、翻然と本当の信心に目覚める。
そしてそこに、ならまあ神様との本当の合楽し合える世界、神様にも喜んでもらい、こちらも喜び合えれる世界に入って行って、一年後には、それこそゆとりのあるその徳の汽車にも乗せて頂くことでしょうし、その一年間の間に行じて行く信心こそが本当な信心だと言うふうに思うんです。
だから、過程ですから、「願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ」と御理解三節にありますように、そのおかげを受けるという間は、やっぱり悲しい時の神頼み的なそういうその信心に、皆がそこを通るんですけれども、何かの機会、何かそこに困った難儀、また一年間頑張らんならんといったような時に当たった時に、本当の信心を頂く人は、こりこそ一生懸命走ったばってん乗り遅れたと、もう信心を止めるような人もある。
そういう時に、これは自分たちの信心が本当にまずかった。もうゆとりのない、それこそガツガツの信心であったから乗り遅れた。来年こそは三人話し、その話をゆとりある頂き方をしなければならんと、言うなら神様との間に、言うなら契りのようなものが交わされて、そこから言うなら合楽の世界が生まれ、生み出されてくるところのおかげが頂ける
ようになるとこう思うんです。
私共が、そのいう一生懸命というのが、おかげを受けなければならんから、一生懸命、例えば教えも行じたというだけではなくてね、その一生懸命が、言うならば乗り遅れたその後に、言うならば誓い合うというか、本気で神の言うことを聞けれるというのはそういうところからじゃあなかろうかとこう思うですね。
神の言う一言でもそれこそ聞き漏らさじと、またそれを右左にせずにそれを行じて行くということ。そこから実験実証。日々有難い勿体ない、言うなら神様との間に、喜び合いの世界が広げて、そして、なら、一年後にまた一回しか出ないというその汽車に悠々と乗り合わせることが出来る。そこから本当の言うならば信心の世界というか、合楽の世界に住むことが出来るようなおかげ。
その辺の過程の所を、私は今朝のお夢で頂いたように思うんですが、今日のこの三十四節でもです。やはり、ただ一生懸命に、言うなら「おかげば頂かんならんから」と言うて参っておる時には、なかなか話も、ただ一生懸命お参りをするだけというようなね。その教え「神の言うことは途中で落としてしまう」といったようなケースが多いようです。
そして一遍、翻然にギリギリのところで乗り損のうて、そこで言うならば、一心発起して、本気でこりゃあ御教えを日々の中に頂かにゃならん。行じなきゃならんというところからね、いわゆるお徳の世界、合楽の世界というようなものを、今朝のお夢と今日のこの御理解三十四節の中から感じました。
果たして、お互い、ただ一生懸命間に合わんならんと思うて一生懸命走っておる時が、まあ何かの機会には、はあこれではゆとりのあるおかげは受けられんと気付いて、本当の言うならば信心に日々をかけて行くという、言うならば合楽理念にいよいよ徹底して基づいた生き方が出来るようになる。
そこから成程神様は嘘をおっしゃってはいない。間違いのないおかげの世界にも住むことが出来る信心。一心に、迷いのないことといわれる。私共は、いや金光様に、言わば合楽に一心に帰依しているようでも、やはり確かめてみると、まあだ迷い信心に過ぎないといったようなこともございます。
確かめに確かめて、そしていよいよ神様の御教えを言うなら道で落としてしまうようなことのない、頂き切っての日々を喜ばしてもらう信心にならなきゃならんと思うですね。
どうぞ。